書評『死んだらどうなるの?』

「日経新聞」日本經済新聞社  2005年2月24日夕刊
 文/鴻巣 友季子 翻訳家
15面、エンジョイ読書(4)死は 無でないと思いたい
読 書 日 記
 ある意識調査で、人間は死んでも生き返ると答えた小中学生が一五パーセントもいたそうだ。ホントなの?と思っているところへ、中高生以上をターゲットに創刊した「ちくまプリマー新書」が五冊届いた。玄侑宗久の『死んだらどうなるの?』をひらく。
 僧侶の著者は、仏教の教えを量子力学にも読み替えていく。色即是空の「空」は量子力学の「暗在系」にあたり、その全体運動を感じることが、「お悟り」だという。そして、死後の世界とは生の世界を反映する「できごと(現象)」である、と。なるほど、死は生なのだ。
 人間は死を拒めない。けど無に帰すのではないと思いたい。だから、哲学だって文学だって(アテネの哲人から「セカチュウ」まで)、死は「消失」とは違うのだとひたすら言ってきた。つまり人間は死の恐怖を乗り越えるために、あらゆる芸術を生み出だし、知恵を講じてきたのだ。でも死が簡単にリセットできると思えば、強靭な知恵も生まれてこないんじゃないか。今のゲームやアニメの多くが、死を扱いながら時として命の陰影の深さに欠けるのはそういうわけか。と、この新書を読みながら考えもした。
 初めから死が怖くない人生なんて、つまらないだろうにな。
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「週刊文春」文藝春秋 2005年2月9日(2月17日号)水曜日繰り上げ発売号
評者:吉田 敏浩

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 死ん3satsuだらどうなるのか。やはりその時にならなければわからない。従って、この種のテーマに取り組む書物の結論は普通、いつか必ず訪れる死の日まで一日一日を「精一杯生きる」というところに収斂(しゅうれん)していく。
 本書もまた同様であるが、かと言って月並みな内容だと評するわけではない。死について考えることは、取りも直さず生きるとは何かを考えることにほかならない。それは真理である。そして、なぜそうなのかを如何に掘り下げていくか、読者の心の底にすとんと落ちてくる何事かを伝えるかどうかによって、この種にテーマに取り組む書物の真価が決まるなら、本書は期待に応えてくれる。
 禅僧にして作家でもある著者は、仏教や老荘思想と量子物理学の先端理論を照らし合わせながら、「死を内包した生」の有り様を丁寧に説き明かす。人体の「個々の細胞は死んでは生まれ、生まれては死に、刻一刻入れ替わって」おり、細胞を構成する分子・原子・素粒子のレベルでも入れ替わっている。
 生の内部における「絶えざる生死の繰り返し」、つまり内なる再生だが、その働きが止まるときこそが、本当の死であろう。それを仏教では「四大分離」ということを本書で教えられた。人体は、地(骨などの硬さ)・水(血液などの流動性)・火(体温という温かさ)・風(心臓などを動かす力)の四つの要素が「縁」によって集まったもので、四要素の働きが分離し「宇宙そのものの流動性である『空(くう)』に還っていく」ことが死というわけだ。「空」を自然、「大いなる循環」と置き換えてもいい。
 sindaraこの地上に一回限りの生を授けられたことの「縁」、そのかけがえのなさが伝わってくる。内なる生死の繰り返し・再生の働きを「魂」と呼んでもいいのかもしれない。そしてそれは、自然・諸行無常の大いなる循環から「縁」によって来たり、また「縁」によって去り、還っていくのだろうか。
 死と生を考えるとき、著者はこれまで弔ってきた無数の死者たちの顔、それが元気だった頃の顔が心に浮かぶという。僧として培ってきたその真実が、本書を基底で支えている。
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「サンデー毎日」毎日新聞社 2005年2月8日(2月20日増大号)
文/南 伸坊

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minami 「死んだらどうなるの?」か明快に答えられる人はいない。誰でも必ず死ぬけれども、死んだら、どうなってたか、報告できないしくみなのだ。
 誰もが必ず体験できるのにそれがどんな体験か、一切明らかになっていないこと、こんな例はほかに見当たらない。
 死ぬのがコワいのは、この「誰にもわからない」からじゃないのか、と私は思っているのだが、誰もがコワいのだから、その理由はそれぞれに考えぬかれていて、それぞれが、それぞれに一言でいう言い方を持っている。
 「死んだらどうなるの?」という疑問は、昔からナゾの中のナゾ、ナゾの王だった。
 コドモの頃、この疑問にとりつかれて、夜になると泣いていたという人は多い。コワくて、しかたなかったという人も多い。
 宗教も哲学も、そしてあらゆる学問は、この究極のナゾから始まっているのだと私は思っている。
 著者・玄侑宗久氏は、小学校二年くらいのとき、毎晩のように「自分が死ぬこと」を想って泣いていたそうだ。
 家はお寺だったけれども、きっと昔のように、つまり、「死んだら、あの世へ行く」、あの世ではエンマ様がいて、生きているうちに、悪いことをした者は地獄に、行ないの正しかった善人は、極楽にふりわけられると、単純に教えられなかったのだろう。
 昔の人は、そのように単純に教えられ、単純にそう信じることで安定していた。
 単純でなかったのはインテリの家庭だったろう。そうして近代は、とりわけ戦後は、ほとんどの家庭が、あたかもインテリ家庭のようになって「あの世」や「エンマ様」を持ち出す根拠を失ってしまったのである。
 本書は、まさに、その典型的に現代人の、この本を書くのにうってつけの人によって書かれた、現代人にうってつけの本である。
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